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イマドキの技術同人の大手はどのくらい儲けているのか

2022年2月10日 公開
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大岡由佳@oukayuka
Mi Band 6 つけっぱ中。

技術書の執筆は儲からない?

この業界にいると「技術書の執筆は儲からず、エンジニアにとって割に合わない」という言説をちょくちょく聞きます。試しに Twitter で「技術書 儲からない」と検索してみると驚くほどたくさんのツイートがヒットします。それらを見ていくと、実際に複数の著書を出されているエンジニアの方々のぼやきがあります。

さらに同じテーマで著書のあるエンジニアの方が書かれているブログ記事も、探せば普通に見つかります。

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ただしこれらは一般の書店に並ぶような商業誌についての話で、近年はそれ以外にも技術ライティングで収入を得られる方法がいくつか新しく出現してきました。
そのひとつは「技術同人誌」。もともとはコミケ内の「同人ソフト」のエリアで地味に頒布されていたのですが、その中の有力サークルである TechBooster が IT 系技術書の電子書籍専業出版社である 達人出版会 と共催で 2016 年からオンリージャンル同人誌即売会の 技術書典 を不定期に開催するようになってから、徐々にその存在感を増してきました。

商業誌、同人誌の両方で本を出されている iOS エンジニアの堤修一さんが書かれた「技術書でご飯は食べられるのか?」という記事は、界隈での反響が大きかったようです。

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また note を始めとするメディアプラットフォームで可能になった、個人による有料のネット記事が一般に受け入れられるようになり、2020 年 9 月に始まった IT エンジニアのための技術情報シェアサービスである Zenn では技術記事を有料にしたり投げ銭ができる機能がついていたことで話題になりました。

サービスが始まってまもなく有料記事を書かれたフロントエンドエンジニアの mizchi さんがその体験を Zenn の中で公開されて、これも反響が大きかった記憶があります。

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ただこれらの記事を読んでいくと、「可能性は感じるけどそれ一本で食べていくにはまだまだ厳しい」「単純に時給換算すると、普通にエンジニアとして働いていたほうがはるかにマシ」という結論にほぼなっており、SNS やソーシャルブックマークで見る読者の反響も「そりゃそうだろうね」ということで落ち着いています。

中には累計 50 万部を超える「数学ガール」という大ヒット・ロングランシリーズを始め複数のヒット作を抱える結城浩先生のような専業ライターもいますが、あまりに特異点的存在で凡人には参考になりえません。

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もっと卑近な例で、技術ライティングでそこそこ食べていけてるケースはないのかと思いますよね。というわけで私のケースを公開したいと思います。
今まであまり声高には言ってなかったのですが、実は私は技術同人誌の売上を主要な収入源にして生活していたんですね。それも直近 3 年以上。

簡単に自己紹介

そんな「私」のことをご存じない方のために簡単に自己紹介しておきます。Web フロントエンド領域を専門にする、いちおうフリーランスのエンジニアで大岡由佳といいます。「くるみ割り書房」の名義で技術書典や BOOTH に技術同人誌を出品しています。

新人と先輩の対話でわかりやすく React が学べる技術書「りあクト!」シリーズ が主力商品で、BOOTH では 2022 年 2 月現在 技術書のカテゴリー で 1 位を始めとして 4、5、8、13、18 位と複数のタイトルを上位にランクインさせています。

BOOTH 技術書トップランキング

余談ですがメルカリでもすごい出品されてます。内容について評判が気になった方は Google で検索するとレビュー記事がヒットするのでそちらをご参考に。

ところで最初に肩書きのフリーランスエンジニアに「いちおう」という前置きを入れた理由は、今は常駐や受注案件を入れていないためです。本が売れてからいくつか技術顧問への打診の話もあったのですが、今のところはお断りしている状況です。もしいま私が警察に逮捕されたりしたら、「自称フリーランスエンジニア」と報道されることでしょう。

しかしてその実態は、主要な収入源がそれなのだから「専業の技術同人ライター」といって差し支えないはずです。けれどもそれをあまり目立つように公言してなかった理由は、最初のうちは本当にそれで食べていけているのか自分でもわからなかったためです。

フリーランス時代、案件が途切れると次の案件を入れるまで半年くらい平気で無収入でいることが多かった私(※基本的に労働があまり好きじゃない)。当時それまで常駐していた会社が、社内政治のイザコザにより私がメインで携わる予定だったプロジェクトが消失し、技術書典に向けて最初の著作の執筆中に契約を切られてしまいました。

そして技術書典も終わり次の案件を探さないとなあと思っていたのですが、ほそぼそながら著作の売上がコンスタントに入ってきていたので「まあいいか」とずるずるそのままでいて今日に至っているというわけです。

もちろん毎年、確定申告はしているので大まかなところは把握しているのですが、事業単体でどれくらいの売上があって収益が上がっているのか、自分でも正確なところはわかっていませんでした。せっかく自前ブログも作ったことですし、記事のネタとしてそれらをちゃんと計算して公開してみることにしました。
最近話題に上がる技術同人の大手がどのくらい儲けているか」というのは皆さん気になるところでしょうし。

くるみ割り書房の収支

最初の著作『りあクト! TypeScript で始めるつらくない React 開発』の初版 が出たのは 2018 年 10 月開催の 技術書典 5 でした。最初の売上が計上されたのがそのときなので 10 月から翌年の 9 月を会計年度として、まず年度ごとの収益を出してみました*1
(※以降のグラフは字が細かくて見にくい場合、クリックすると拡大画像が見られます)

くるみ割り書房の年度ごとの収益

売上粗利粗利率
1 期 (2018/10〜2019/09)¥4,775,630¥3,516,78273.64%
2 期 (2019/10〜2020/09)¥7,910,890¥6,434,51581.34%
3 期 (2020/10〜2021/09)¥13,727,348¥10,742,24678.25%

年度ごとに見ていくと、最初の 1 年は生活をつつましやかにしながらも貯金額が現状維持か微減だったような記憶があるので、その体感値とも合致します。2 年めでだいぶラクになり、3 年めは生活にそこそこ余裕が出てきたと思ったら、粗利で 1,000 万円を超えてたんですね。

このグラフでは事業として順調に伸びていって、4 期めはそれはもうすごいことになりそうな期待が持てます。はたしてそうなのか、今度は月ごとの売上推移を見てみましょう。

くるみ割り書房の月ごとの売上推移

月ごとで見ていくと、2020 年 9 月にディープインパクトがあり単月で 400 万円以上の売上を計上し、その後 1 年ほどコンスタントに月 100 万円前後が売れるようになったことがわかります。
この月に何があったかというと、技術書典 9 の開催に合わせて『りあクト! TypeScript で始めるつらくない React 開発』の第 3 版を新刊として出したんですね。

『りあクト! TypeScriptで始めるつらくないReact開発』第3版の表紙

第 3 版の改版作業は筆がノリにノッて、それまで 200 ページ足らずだった内容が合計 600 ページを超える量に増えてしまいました。作業量も膨大で、当初は技術書典 8 に出す予定だったのを、新型コロナ流行の影響で中止になり空いた半年以上の期間をまるまる執筆に充ててようやく間に合ったほど。

しかし印刷に回す段になって、多くの同人誌向けの印刷会社は 300 ページを超える冊子を受け付けてないことに気づきました*2。そこで上中下の 3 巻に分割、前版までは 1 部 1,500 円という価格設定だったのを、1 巻を 1,200 円という割安な価格にしました。

これについてはライトノベルでは話が長くなる場合、前後編や上中下巻に分けて売ることがよくあるのがヒントになりました。3 巻合計だと 3,600 円と商業誌と変わらないかむしろ高いくらいなのに、この形式だと買いやすくなぜかオトク感もある。著者としては内容のクオリティが高かったことも寄与したと信じたいですが、この商法が当たったのが大きかったのでしょう。1 人で 3 巻そろえて買う人が続出し、今まで見たことがなかった部数が単月で売れました。

そしてその後 1 年ほど、何もせずとも*3毎月 100 万円前後の売上があがるという夢のような生活が続いたんですが、2020 年の 10 月以降それが鈍化していっています。React は 2019 年 2 月リリースの 16.8 で Hooks というエポックメイキングな機能を追加し、以降それまでの書き方が急速にレガシー化していったのですが、その Hooks に対応しためぼしい商業誌がなぜかずっと出ていませんでした。それがこの 2020 年 の 8・9 月にいきなり 3 冊ほど出版され、そちらに見込み客が流れていった影響だと思われます。

「りあクト!」シリーズはどれくらい売れているのか

次にこれまで本がどれくらい売れたのかを見てみましょう。まずタイトル別に集計してみました。(2022 年 2 月 4 日現在)

部数
TypeScript で始めるつらくない React 開発初版523
2 版3,016
3.x 版Ⅰ 巻5,403
Ⅱ 巻4,723
Ⅲ 巻4,265
TypeScript で極める現場の React 開発初版2,393
Firebase で始めるサーバーレス React 開発初版1,814
合計22,782

やはり『TypeScript で始めるつらくない React 開発』の第 3 版が革命的だったことがわかります。そして「りあクト!」シリーズ累計では 2.2 万部以上が出ているのは我ながら驚きです。これは技術同人誌では前人未到の数字なのではないでしょうか。
ちなみに商業誌で「○○ 万部突破!」と宣伝しているのは刷り部数で、書店が在庫で抱えていたり返本分も含まれた数字です。ここで計上しているのは「実売部数」ですのでおまちがえなく。

そしてこの実売部数をプラットフォーム別に集計し直したのが下の表です。

部数比率
BOOTH18,35280.55%
技術書典4,18518.37%
とらのあな2451.08%

実感してはいましたが、こと技術同人誌においてネット販売のプラットフォームでは BOOTH が圧倒的です。最初、他の技術同人サークルの人たちがやっていたのをただ真似して軽い気持ちで技術書典での売れ残りを BOOTH に出品し、ついでに電子書籍版も置いていたのですが、途中で気づきました。「これは技術同人にとっての破壊的イノベーションな存在」だと。

他のプラットフォームと比べて購入体験はもちろん販売体験のクオリティも桁違いに高く*4、ストレスなく買ったり売ったりできます。技術同人誌マーケットの成長と BOOTH は切り離せないでしょう。技術書典も瞬間的な爆発力はありますが、その力はイベント開催期間に限定されます。2020 年 9 月の技術書典 9 から「技術書典オンラインマーケット」が開設され、イベント開催期間外でも電子書籍版に限り同人誌が買えるようになりましたが、月売上高推移のグラフで見てもそれは誤差程度の数値にしかなっていません。

とらのあな も最初のうちは技術同人誌に力を入れていたようで、実店舗に POP つきで並べてもらえることも魅力だったのですが、BOOTH に押し負けて最近は存在感がまったくありません。BOOTH と比べて UX が悪すぎるのと、とらのあなというとエロのイメージが強すぎるのもマイナス要素でしょう。

結論:技術同人で食べていくのは不可能じゃありません

最後に「時給換算で割に合うの?」というのを考えてみたいと思います。なおフリーランス時代は、常駐で 1 時間あたり 5,000 円くらい請求していたような記憶があります。そのころは 1 日 8 時間は働いていたのですが、週では 3・4 日、頼み込まれたときだけ期間限定で 5 日働いていました。

ひるがえって現在ですが、新刊を出す前の 2 ヶ月くらいは寝食を忘れる(忘れないけど)ほどに没頭しているのですが、それ以外は 1 日に 2〜4 時間くらいしか労働と呼べることをしていません(※繰り返しますが労働があまり好きじゃないんです)。
ただし平日・休日の区別がなくほぼ毎日作業しているため、1 日平均 3.5 時間労働を年 340 日行ったものとしてそれで粗利を割って時給を出してみます。

時給
1 期 (2018/10〜2019/09)¥2,955
2 期 (2019/10〜2020/09)¥5,407
3 期 (2020/10〜2021/09)¥9,027
全期平均¥5,796

実際の収入は粗利から経費その他が引かれるので完全にフェアな比較とはいえないのですが、2 年め以降から時給でもエンジニアとしてフリーランスで働くよりもライター業のほうが上回っていました。

技術同人誌の市場が拡大しつつある時期にタイミングよく参入できたこと、技術革新のスピードが早くて商業誌の出版ペースでは追いつくのが難しい Web フロントエンドという分野だったこと、現場では React を使う際に TypeScript で書かれることが多いのに公式のドキュメントがそれに対応していないことといった複数の要因が運良く重なったという側面はありますが、それでも技術同人で食べていけている人が存在するという事実は注目に値すると思います。

しかもその当人は、それまで商業誌の著作があったり技術雑誌やメディアに寄稿の経験があったわけでもなく、著名な OSS プロダクトの作者だったりメンテナーだったりするわけでもなく、Qiita や Zenn でバズり記事を連発するインフルエンサーだったりするわけでもなく、聞こえのいい会社の CTO だったりテックリードだったりするわけでもない、ただの一介のフリーランスエンジニアだったわけです。

違うところがあったとすれば、同人誌の制作を書いて終わりの単なる執筆作業にせず、プロダクトマネージャの経験から出版ビジネスとしてマーケティング含め、いかに継続的に伸ばしていくかということを考え続けたことじゃないかと思います。そのへんはおいおい、別の記事として書いていこうかと考えています。


  1. 掲載している数値は概算で、会計的に厳密に正しいものではありません。粗利は売上から印刷・製本代とオンラインストアの販売手数料、倉庫使用料および送料を除いたものです。また確定申告では期末に在庫の棚卸しをして仕入値はその商品が売れた年度に計上しますが、ここでは業者への支払いを行った月に全額計上しています。
  2. もちろん 350 ページやなんなら 600 ページの印刷を受け付けてくれる会社はありますが、価格や使い勝手やその他こちらのニーズを満たしてくれるか考慮した上で選択肢がなかったという話。
  3. いや実際には少改訂の第 3.1 版を出したり、BOOTH の商品ページに Google Analytics を仕込んで内容を少しずつ改善していったりしていたんですが。
  4. 場数を踏んできた Web エンジニアとして厳しいことをいわせてもらえば、BOOTH は当たり前のことをまあ合格レベルでできているだけで、百点満点というわけではありません。BOOTH にも改善のための要望はたくさんあります。